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届かない約束 ③

last update Last Updated: 2025-03-10 13:49:26

 リノアはエレナに別れを告げると、森への道を一人歩き始めた。

 村の喧騒が遠ざかり、木々の影が彼女を包む。

 籠を握るリノアの手がほんの僅かに震えている。それは寒さのせいではない。母が消え、シオンを失い、一人でこの村で生活する寂しさが心に重くのしかかっているからだ。

 幼かった頃に聞いた、あの自然の声が再び聞こえることを、リオナはどこかで期待していた。それが何を意味するのか、どうして私に聞くことができたのか、それがどうしても知りたかった。

 リノアは村の外れに広がる森の入り口に立った。

 木々の間から吹く風がリノアの頬を撫で、かすかな湿った土の匂いが鼻をくすぐる。リノアは深呼吸し、籠を肩にかけるとゆっくりと一歩を踏み出した。

 足元の草が柔らかく沈み、靴底に小さな土の粒が付着する。

 森の姿は、いつもと何一つ変わらないように見えた。高くそびえる木々の緑、鳥たちの影、そして淡い光が差し込む薄暗い道。しかしリノアの心には何か引っかかるものがあった。

 風の音は高く、耳をかすめるように響き、木々のざわめきにはいつもより鋭さが感じられる。

 リノアは母親から教わった道をたどり、薬草の生える場所へ向かった。

 木々が密集するその奥には、傷を癒すカミツレや熱を下げるヨモギが静かに息づいている。まるで母の手ほどきを再び受けるような気持ちで、リノアは木々の間を縫うように進んだ。

 頭上の枝葉が風に揺れ、陽光がまだら模様を描きながら地面に降り注ぐ。時折、小鳥が飛び立つ羽音が森の静寂を破った。

 その瞬間、心にわずかな緊張が走った。森は時として優しく、そして無情だ。リノアは身構え、そして耳を澄ました。

 森に流れる音の中に、かつて聞いた自然の声が混ざっていないかと期待したが、耳に届くのは風のささやきと小鳥たちのさえずりだけだった。

 あの幼い日に聞いた優しく包み込むような声が、今は遠いものに感じられる。
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