薬草の群生地にたどり着くと、リノアは膝をついて籠を地面に置いた。 眼前には小さな白いカミツレの花が群生している。それらを摘み、リノアは一輪の花を指先で優しく潰した。 少し苦みのある香りが立ち上がり、懐かしい記憶を呼び起こす。母がよくこれを煎じて飲ませてくれたっけ。 リノアは目を閉じて、記憶の中に身を浸した。 母の優しい声と手の温もり。そして、森で消えていった母の背中――それだけが、くっきりと切り取られたように記憶に残っている。どうして母は戻ってこなかったのか。リノアは数えきれないほど、その問いを心の中で繰り返したが、答えは一度も見つからなかった。 ふと、母の言葉が頭に蘇った。「リノア、気をつけてね。あの森は優しいけど、時々気まぐれになるから」 気まぐれ……。 リノアはその言葉を反芻した。あの頃には理解できなかったその言葉の意味が、今になって少しずつ形を持ち始めている。 リノアは立ち上がって周囲を見回した。木々の葉が少し黄色く、地面の草がいつもより乾いている。季節の変わり目にしては早すぎる変化だ。 リノアはヨモギの葉を手に取って見つめた。その茎の硬さと乾いた感触に眉をひそめた。水分が少ない。いつもなら青々として柔らかいはずなのに……。「何か変だ……」 リノアは呟き、籠に草を詰めながら考え込んだ。シオンが亡くなったあの日から、森の様子がどこかおかしい。 シオンはよく森に入り、植物や土を丹念に調べていた。その手にはいつも分厚いノートがあり、小さな文字でびっしりと自然の変化が記録されていたのを覚えている。確かノートは今、エレナが持っているのではないか。 シオンの死は本当に事故だったのか、それとも……。 その疑問が胸の内で膨らみかけた瞬間、リノアは思考を振り払うように首を振った。「今日は、これだけにしよう。これだけ採れたら十分だ」 リノアは籠を肩にかけ、引き返すことに決めた。どこかで何かが潜んでいるような気がする。 リノアはノートに何か手がかりがあるのではないかと思い始めていた。村に戻り、エレナに会って話を聞こう。シオンの死に何か隠された真実があるなら、それが森の異変と関係しているかもしれない。
村に戻ると、太陽はすでに中天に近づき、熱を帯びた光が広場を照らしていた。 子供たちが笑い声を上げて走り回り、女性たちが洗濯物を干す姿が目に映る。だが、その日常の喧騒はリノアの耳に遠く、どこか現実離れした響きに感じられた。 彼女の胸には森で見た異変が重く残っていた。 リノアはエレナの家に向かった。小さな木造の家は屋根に薬草を干す棚が設けられ、風に揺れた葉の香りが漂っている。扉を軽く叩くと、中からエレナの声が聞こえた。「誰? 入っていいよ」 扉を開けると、部屋は薬草の濃厚な匂いで満たされていた。机の上にはシオンのノートが広げられ、乱雑に置かれた紙や乾いたインク壺が散らばっている。「リノア、早かったね。森はどうだった?」 椅子に座ってノートを眺めていたエレナが顔を上げて尋ねた。 その声にはさりげない気遣いが混じっている。リノアは籠を床に置き、エレナを見据えた。「少し変だった。草が乾いてて、木も元気がないみたい」 エレナの表情が一瞬で曇り、眉間に細かな皺が寄った。彼女はノートを手に取り、ためらいがちにページを捲った。「シオンも同じことを書いてる。自然が弱ってるって。ここ数ヶ月、森の様子がおかしいと記録してる」 リノアはノートを覗き込んだ。シオンの丁寧な字で描かれた植物のスケッチ、細かく記された数字や日付が並んでいる。「シオンの死って、本当に事故なのかな」 リノアの落ち着いた声が静かに部屋を切り裂く。 その言葉にエレナの手が止まり、ノートを持つ指先に力がこもった。「実は私も怪しんでる。でも証拠がない……。村の人たちは事故だって信じてるし、まだ深入りするのは早いんじゃないかな」 エレナはリノアをじっと見据え、低い声で言った。「どうして?」 リノアの問いが鋭く響いたのか、エレナは一瞬、リノアから目を逸らし、言葉を選ぶように息を吸った。「シオンが何かに気づいていたのなら、それが原因で……ね」 エレナの言葉はどこか曖昧だったが、リノアの胸に冷たい刃のように突き刺さった。 リノアは立ち上がって窓の外を見た。子供たちの笑い声、洗濯物を干す穏やかな動き、村の風景は平和そのものだ。しかし、その下に何か暗いものが蠢いている気がしてならない。 風が窓枠を揺らし、遠くの森から届く微かなざわめきが、不穏な囁きのように耳に忍び込む。シオンの死と自然の異
その夜、リノアは広場で村人たちと話をした。火を囲み、皆が一日を終えて集まっている。 クラウディアが杖をつきながら近づいてきた。「リノア、森はどうだった?」「少しおかしかったよ。草が乾いてて……。自然の元気がないみたい」 クラウディアは眉を寄せ、火を見つめた。「昔もそんな時があった。自然が警告を発するときだよ」 クラウディアは言いながら、空を見上げる。「警告?」 リノアは思わず聞き返した。「ああ……」 クラウディアは少し黙り込んだ。そして、ためらうようにリノアの顔をじっと見つめた後、言葉を続けた。「リノアの母がいた頃も、こんな風にね……。自然の声が耳に届いていたんだ」「母が……?」 リノアの胸にかすかな不安が広がった。母の話は村ではあまり触れられない。その話題を避けるかのように、大人たちは皆、母のことを口にしなかったのだ。「彼女は特別な存在だったんだよ、リノア。村でも珍しい役割を担っていた。語り部──それが彼女の役割だった」「語り部……どうして、そんなことを……?」 私の知らない母の一面だ。「彼女は自然の声を聞き、それを村の人々に伝えていた。それが語り部としての務めだった。だからこそ、リノアも……」 リノアは困惑と戸惑いの入り混じった目でクラウディアを見つめた。その意味を深く考える前に風が舞い上がり、二人の間に新たな静寂が訪れた。「彼女も自然の声を聞くことができたんだよ。リノアと同じようにね」「どうして、それを……」 自然の声を聞くことができるなんて、誰にも話したことはない。リノアはクラウディアの言葉に息を呑んだ。 リノアの胸が高鳴り、指先が微かに震えた。母も同じように自然と話をしていたなんて……。心の中に様々な疑問が浮かび上がっては消えていく。母には聞きたいことが沢山ある。 クラウディアはリノアをじっと見つめていたが、ふいに目をそらし、立ち上がって火のそばを離れた。 リノアは戸惑いを抱えたまま、ただ彼女の背中を見送るしかなかった。火の揺らめきが静寂をかき乱す。 火のそばに残されたリノアは村人たちの会話に耳を傾けた。小さな集団の中心でレオが苛立ちを隠さず言葉を吐き出している。「自然ばかりに頼っていても、村は良くならない。もっと外と交易すべきだ」 夕暮れの広場で焚き火の明かりがレオの顔を照らし出す。「その通りさ
夜が更け、家に戻ったリノアは、ベッドに横になってシオンの形見である木彫りの笛を手に取った。窓の隙間から冷たい夜気が流れ込み、カーテンが揺れている。 リノアは笛の表面を指で撫でながら母の背中を思い浮かべた。あの優しい声、森の中で見せてくれた笑顔……。全てが今は遠い記憶となっている。 リノアは目を閉じ、風の音に耳を澄ませた。もし、また自然の声が聞こえるなら。何か教えてくれるのではないかと期待しながら。 窓の隙間から忍び込む冷たい夜気が彼女の頬を撫でる。 この風の中に混ざった微かな音は何だろう? 人の声ではない。もっと深く、根源的な響き……。 リノアはベッドから跳ね起き、窓辺に駆け寄った。霧と雲の切れ間から無数の星が輝く夜空が見える。 その光に吸い寄せられるように、リノアの瞳が星を捉えた時、かつてシオンが教えてくれた星詠みの記憶が蘇った。「自然は星の言葉なんだ。リノア、耳を澄ませて星を見つめてごらん」 リノアは笛を握り、星の光に目を凝らした。北の空で三つの星が微かに揺れている。それらは他の星とは異なるリズムで瞬いている。 星が私に何かを伝えようとしている……。 衝動に駆られたリノアは笛に唇を当てた。 深く、そして沈み込んだ笛の音が風に乗り、霧の中を漂って行った時、北の空の星々が一斉に輝きを増した。まるで笛の音に呼応するかのように星々が歌い出す。 リノアは震える指先に力を込め、笛を吹き続けた。音が夜空に溶け、霧が揺れる。 リノアの耳に響く、微かな囁きの中で何かが蠢き、浮き彫りになっていく。それはシオンの声でも母の声でもない。自然そのものが語りかけるような声だ。 木々のざわめき、小川の流れ、遠くの鳥の羽音が笛の音色と共鳴している。 リノアは笛を下ろし、星空を見上げた。「これが……星詠み?」 シオンが教えてくれた力。星と自然を通じて感じる言葉にならない感覚。笛の音がその扉を開いたのだ。 霧が揺れ、星の光が彼女を包み込んでいく。自然の声はまだはっきりしない。でも、確かにそこにある。シオンの遺志か、母の想いか、それとも村を襲う危機の予兆か?リノアの心に小さな火が灯り、夜の静寂に希望が響き合った。
リノアは眠りの中でも風の音を聴き続けていた。夢の中、木々がざわざわと囁き合い、遠くで誰かが呼んでいる。それがシオンの声なのか、母の声なのか、それともまったく別の何かなのか。はっきりしないまま、彼女は目を覚ました。 朝の光が木枠の窓から射し込み、部屋を淡く照らしている。けれど、その優しい光でさえも、昨夜の村人たちの声を振り払うことはできなかった。 エレナの曖昧な警告、クラウディアの謎めいた言葉、レオとカイルの軽率な態度……。それら全てがシオンの死や森の異変に繋がっているように思えてならない。 リノアはベッドから起き上がり、籠を手に取った。 今日はいつもの薬草採取の仕事より、シオンの足跡を追いたいという思いの方が強い。シオンが最後に森の中で何を見たのか、何をしていたのか、その答えを探さずにはいられない。 光が差し込む窓を背に、リノアは扉を開けて外の世界へと足を踏み出した。 リノアは村の外れを抜け、シオンが何度も足を運んでいた北側の一角へ向かった。そこは村人たちがあまり近づかない場所だ。木々が密に生い茂り、薄暗い雰囲気が漂っている。 小径の入り口に差し掛かった時、その場の空気が変わったのを感じた。風が木々の枝を揺らし、低い唸りのような音が辺りに響いている。鳥の声が少ない。代わりに葉擦れの音だけが聴こえる。 リノアは苔に覆われた足元を慎重に踏みしめながら進んだ。地面は湿り気を帯び、靴底にまとわりつく泥が歩みを重くする。 シオンのことが頭によぎる。シオンはこの道を何度も歩き、自然の秘密を追い求めていた。ノートに描かれた数多くの植物のスケッチや観察の記録が鮮明に蘇る。「シオン、ここで何を見つけたの?」 リノアの呟きは虚しくも風に流れて木々の間に消えていった。 太陽が木々の隙間から漏れ、地面に光を落としている。そのまだらな輝きの中、リノアは足を止めて周囲を見渡した。 ここはシオンが倒れていた場所に近い。 村人たちは「落石に巻き込まれた」と語っていた。しかし本当にそうなのだろうか。 風が再び吹き抜け、リノアの髪を揺らした。土と葉の香りが鼻先をくすぐる中、リノアはさらに奥深く進むことを決めた。 この場所には、まだ何かが隠されている。そう思わずにはいられなかった。
リノアは小径の奥に足を踏み入れた。湿った土が靴底に食い込み、冷たい朝霧が足元を這う。木々の間を抜けると、目の前に小さな空き地が開けた。そこにはシオンの痕跡が残されていた。地面に置かれた石の輪、その中心に残る焦げ跡……。 灰は風に散らされ、石の隙間にわずかに残るのみ。これは焚き火の跡だ。近くには折れた枝が無造作に転がっている。 シオンがここにいた。リノアは胸が締め付けられる思いをしながら、空き地に足を踏み入れた。「あれは何だろう?」 風に揺れるその一片にリノアの心がざわつく。リノアは急いで近づいて、震える手で紙片を拾い上げた。シオンの乱雑な文字……。《龍の涙》 リノアは眉を寄せ、紙片をじっと見つめた。これは村の儀式で使われる種子の名だ。 龍の涙について母が語ったことがある。暖炉の前で、母は目を輝かせて言った。「リノア、龍の涙は神秘的な力を宿しているんだよ。癒しもすれば、壊すこともできる」 母の声が、今も耳に鮮明に残る。 リノアは紙片を握り、霧が漂う空き地を見回した。すると、空き地の端、木の根元に引っかかった布切れが目に入った。 リノアの息が止まる。あれはシオンがいつも首に巻いていた青いスカーフだ。 そのスカーフが赤黒い染みで覆われている。血ではないか。 震える手でスカーフを手に取ると、乾いて硬くなった染みが指先に冷たくざらついた感触を残した。 シオンの死は落石による事故だと聞かされている。村人たちがそう説明し、エレナも「詳しいことはわからない」と首を振っていた。だが、この血は何だろう? 本当に落石で亡くなったのだろうか? リノアはスカーフを握り、目を凝らした。青い布に染み込んだ赤黒い痕が、シオンの笑顔と重なる。 笛を彫りながら笑った日、一緒に森で薬草を探した日──あの穏やかな記憶が、目の前の血の染みとあまりにも対照的で、胸が苦しくなる。すべてが遠い過去になりつつある中で、このスカーフだけが現実を突きつけてくる。 どれだけ無念だったことだろう。一人寂しく散ったシオンのことを思うと息が苦しくなる。 本当に事故だったのだろうか? 周囲の人たちの反応、残された紙片。それらを踏まえると、ここで何かが起きたと見るのが自然ではないか。 この血が示すものは、村人たちが語る単純な死では説明できない何かのような気がする。 シオンの最期に何があっ
石の輪の中で灰が舞い上がり、まるで生き物のように渦を巻く。風に乗った灰が朝陽に照らされてキラキラと輝いている。 リノアは目を細め、その不思議な動きを見つめた。すると、風が地面を撫でるように吹き抜け、石の輪の近くで苔に覆われた土がわずかに崩れた。 まるで呼び起こされたように姿を現した一つの小さな木箱…… やがて風が止み、森が再び静寂に包まれた。霧が晴れ、朝陽が再び大地を照らしていく。 木箱の表面は粗く削られ、角が少し欠けている。素朴で無骨な作りをした木箱だ。 リノアは木箱にゆっくりと近づき、木箱を見下ろした。これはシオンの手作りで間違いない。箱の表面に小さな渦巻き模様が刻まれている。 シオンがこれを手に持って笑う姿が頭に浮かぶ。──この木箱が、ここにあるということは……。何者かの手に渡らないようにシオンが木箱を隠したことを意味するのではないか。 箱の蓋には小さな留め金があり、中に何か入っている感触がある。「シオン……開けるよ」 そう言って震える手で木箱を開けた時、朝陽が木々の隙間から差し込み、リノアの周辺を淡く照らした。 足元に小さな水たまりがある。朝露や霧の水分が地面のくぼみに集まったその水面が、まるで水鏡のように揺れている。リノアのスカーフを握る手が映り込み、血の染みが赤黒い影となって揺らめく。 リノアが水面を見つめた瞬間、水鏡が歪み、血の影が渦を巻くように動いた。その中心に映し出されたのは、笛を手に森を見上げるシオンの姿……。「シオン……」 リノアの胸に不思議な感覚が走る。シオンが教えてくれた力──自然の兆しを感じ取る星詠みの力だ。星は見えずとも、朝陽や風、そしてこの水鏡がシオンの意図を映し出している。 木箱の出現は偶然ではない。 水鏡に浮かんだシオンの姿が私に囁いたのだ──「龍の涙を守れ」と。 リノアは木箱の中をそっと覗き込んだ。折り畳まれた紙と、小さな種子が静かに横たわっている。 村の儀式で使われる種子と同じ形──しかし、どこか異質に見える。表面が光を薄く放ち、指で触れると微かな熱が伝わってくる。 リノアはそれを手のひらに載せて、じっと見つめた。 種子は小さく、掌に収まるほどだが、ずっしりとした重みが感じられる。まるで生きているかのように微かに脈動している。 これはただの種子ではない。生命の鼓動、自然の力が宿った
リノアは木箱の底に横たわっていた紙片を広げ、シオンの掠れた字に目を凝らした。乱雑な字がびっしりと並んでいる。インクが滲み、震えるような筆跡がシオンの焦りを伺わせる。 リノアは貪るように、その一行一行に目を走らせた。『龍の涙は自然の均衡を保つ力を持つ。大地の深みで脈を打ち、水の鏡に映り、風の囁きに乗る。木の根に刻まれた命のしるしだ。村の儀式はその力を引き出すためのもの――だが、それは半分しか真実を告げていない。使い方を誤れば破壊を招く。その涙は救いか、裁きか。守れ、リノア。星が沈む前に』 文章はそこで途絶え、紙の端はまるで燃え尽きたように黒ずんでいた。 リノアは自分の名が紙に書かれていたことに驚きを隠しきれなかった。シオンは私が木箱を手にすることを予見していたのだろうか……。 そう言えば、シオンがよく口にしていた言葉があった。──自然は求める心に寄り添う── 水鏡に浮かんだシオンの姿が私に囁いている──「龍の涙を守れ」と。 紙を持つ手が震え、リノアの目から涙がこぼれ落ちた。リノアの涙が紙に落ち、小さな染みを作っていく。「シオン、一人で抱え込んでいたんだね。もっと私がしっかりしていたら……」 リノアは紙を胸に抱き、地面に崩れ落ちた。 シオンは種子の力を知り、一人で守ろうとしたのだ。そして、それがシオンの命を奪うことになった。 誰かがこれを奪い取ろうとしている。一体、何の為に……。 龍の涙に秘められた未知の力──それがシオンが追い求めていたもの。 途切れた言葉の先には一体、何が書いてあったのか。リノアは種子と紙を握り締め、霧の奥を見据えた。 シオンは一人、霧深い森の奥で何かに立ち向かった。死の間際、叫び声を上げたのか、それとも静かに運命を受け入れたのか。想像するだけで胸が張り裂けそうになる。 リノアはシオンの紙をもう一度見つめた。 やはり、その先には何も書かれてはいない。空白がシオンの沈黙を映しているかのように。しかし文字はなくても、龍の涙の鼓動が私に囁いている。シオンが命を賭けた理由が、ここにあると。 シオンの遺志は自然と共にある。村を守るため、龍の涙の秘密を隠すため、彼は命を賭けたのだ。「シオン……龍の涙って何なの? 私にどうして欲しいの?」 リノアは空を見上げ、朝陽が雲の隙間から差し込む光に目を細めた。リノアの呟きが霧に溶
「だけど、どうして私の能力や龍の涙のことを知っているんだろう」 そう言って、リノアは深く息を吸い込んで、そして続けた。「シオンが亡くなったことまで知ってるなんて……。グリモナの村と交流はあるけど、そこまで密接な関係でもないのに……。何か目的があって、私たちに近づいてきたとしか思えない」「確かにね」 エレナはリノアの言葉に同調し、真剣な表情で話し始めた。「グレタの態度には何か違和感があった。穏やかに話していたけど、視線が鋭くて、私たちの話を探っているような感じだった」「随分と森のことを心配している様子を見せていたのに、その言葉の裏に別の意図があったってことか……」 リノアは表情を曇らせながら言った。「まだ分からないけど、その可能性もあると思う。私たちがどこまでのことを知っているのかを探っていたとかね」 エレナは冷静さを保ちながら慎重に言葉を紡ぎ、少し間を置いて、さらに続けた。「いずれにしても目的が分かるまでは注意しないとね。クラウディアさんが言うには、他の名家たちも龍の涙を狙っているってことだし」 エレナとリノアの間に漂う空気が、一層引き締まった。「そうだね……」 リノアは息を整えながら、視線を手紙に戻した。 グレタの動向は気にしなければならない。だけど、レイナの様子も気になる。 レイナの森の奥に意識を向ける態度は一見、無関心に見えた。だけど、あの人は何かを隠している。 もっと深い何か別の計画があってもおかしくはない……。「何だか大人って汚いよね。裏表があってさ。やな感じ」 トランが少し不機嫌そうにぼそりと呟いた。 トランは少し口を閉ざした後、視線をリノアたちに向けた。その目には、何かを確かめたいという切実な思いが宿っている。「ねえ、リノアたち、ラヴィナのところに行っちゃうの?」「うん。私が村に留まれば村に争いを呼び込むことになるしね」 リノアが言った。「そんなことないよ。戻って来てよ」 トランが不安そうに言うと、リノアはトランの方を向いて微笑んだ。「行かなければならないし、クラウディアさんも旅立って欲しいと思ってるから……」 そう言って、リノアは視線を遠くに向けた。「そうかもしれないけど、きっとクラウディア様はリノアを逃がそうとしているのだと思うよ。村に居たら危ないから。何か、そんな気がするんだ」 トランの表
「気になるのは……」 エレナが口を開き、眉を少し寄せながら思案深げな表情を浮かべた。「グリモナ村の村長グレタ、そして女性戦士レイナよ。この二人が何の目的でリノアについて尋ねてきたのかがはっきりしない。クラウディアさんは注意するようにって、警告してくれてるけど……」 エレナが警戒して言った。「グレタとレイナってどんな人たちなんだろう」 リノアは手紙を見つめながら、小さく呟いた。「トラン、見張りをしていたなら、この二人に会っているんじゃないの?」 エレナの問いかけに、トランはすぐに答えた。「もちろん、会ってるよ」 トランは得意げな口調で答えた。「その人たちは昨日の夕方に村に来たんだ。グレタって人はクラウディア様より老けていて、レイナって人は背の高い女の人。様子は普通じゃなかったよ」 トランは見張りの時の光景を思い出しながら語った。「普通じゃなかったって、どういうこと?」 エレナが眉をひそめ、慎重に問いかけた。「何ていうか……言葉では上手く説明できないんだけど、あの二人は何かを隠しているように感じたんだよね」 トランが自信なさげに言った。「もしかして……昨日、道ですれ違った二人のことかも」 リノアがハッとした様子で目を見開いて言った。「そう言われてみれば……。きっと、あの二人だわ。あの二人で間違いないと思う。あの時は、ただの旅人だと思ってたけど」 エレナもその場面を思い返し、真剣な表情になった。 部屋に緊張感が漂う。 トランの言葉とリノアたちの記憶が繋がり、グレタとレイナが単なる訪問者ではないことをリノアたちに確信させた。 グレタたちが何を目的としているのか、その意図が見えてこないまま、不安が増幅していく。「その二人がグレタとレイナなら、グレタとは直接、会話を交わしてる……」 リノアは記憶をたどりながら、慎重に言葉を選んだ。「でもあの人たちってリノアのことを、リノアだと気づいてなかったよね」 エレナは真剣な表情で言葉を発した。「私やシオンのことを人伝に聞いて知ったってことなのかな」 リノアは手紙から目を離し、少し考え込むように言った。「付き添いの女性、レイナは殆ど口を開かなかったわね。あまり私たちには関心がなさそうだった。意識を常に森の奥に飛ばしていたし」 エレナも記憶をたどりながら言葉を発した。 レイナか。
手紙を読み終えたリノアは、しばらく手紙を見つめ、クラウディアの言葉を一つ一つ心の中で反芻した。その目には、どこか迷いがある。 リノアはクラウディアの思いを深く感じ取り、深い思考に沈んでいった。 手紙の言葉の端々にはリノアを案じる母親のような温かみのある愛情が込められている。「クラウディアさん、私が外の世界に行きたがっていたことに気づいてたみたい……」 リノアの表情に複雑な感情が浮かんでいる。「でも……本当は引き止めたかったんだと思うよ」 エレナがふと口にした。 エレナの声にはクラウディアの心情を思いやる優しさが込められている。「うん、分かってる」 リノアはそう言うと、視線を床に落とした。「本当は心配でたまらないけど、リノアならきっと大丈夫だって。クラウディアさんはリノアを信じることを選んだのよ」 エレナがリノアに寄り添いながら言葉をかけた。──私を信じて…… リノアは目を伏せたまま、胸の中に広がる思いに心を寄せた。──今までも外の世界を見てみたいという願望はあった。しかし、ノクティス家という自分の立場を考えたら、自由に動き回ることなんて許されるはずもない……。 ずっと心のどこかで、自分は一生この村から出ることはできないのだと諦めていた。だけど今、それをクラウディアさんが壊してくれた……「クラウディアさんは私のことを信じてくれている。私はその想いに応えたいと思う」 リノアは意を決したように顔を上げた。──もう、ここに踏み留まる理由はない。クラウディアさんが私の背中を押してくれている。 リノアはペンダントを握り締めた。 ヴェールライトの冷たい感触がリノアに揺るぎない覚悟を与える。「クラウディアさんは分かっているのよ。リノアなら、この森の未来を切り開くことができるってね」 エレナが柔らかな声で言い、優しい瞳でリノアを見つめた。「村を守りたいって思うところ、何だかリノアらしくて良いね」 トランが二人の間に割って入った。 トランは明るく振る舞っているが、どことなく哀しげな雰囲気を秘めている。「私がついてるもの。どんな困難が降りかかっても、絶対に乗り越えられるわ」 エレナはまっすぐにリノアの目を見つめて言った。その表情には仲間としての覚悟が滲んでいる。「ありがとう。エレナ、トラン」 リノアは二人の言葉を微笑んで返した
「でもさ、あのシカなんで消えたの?」 トランが問いかけるように口を開いた。 その瞳には驚きとほんの少しの不安が混じっている。 リノアはヴェールライトのペンダントに視線を落としながら、答えを探るように考え込んだ。 森そのものが姿を変えた存在—— あの存在と対峙した時に私の心に芽生えた感情。それは恐怖ではなく、森が私に語りかけ、包み込むような不思議な感覚だった。「もしかしたら……森そのものが怒りや悲しみを、あのシカの形を借りて表現していたのかも。それが鎮められたから、霧と共に消えていったんじゃないかな」「えっ、あれってシカじゃないの?」 トランが不思議そうな顔でリノアを見つめる。「違うと思う……」 リノアは少し戸惑いながらもそう答えた。その表情には完全な自信があるわけではない。しかし自分の直感を信じようとする姿勢が感じられる。「私も何となくだけど、殺してはいけない気がした」 エレナの瞳には、どこか遠くを見るような思索の色が浮かんでいた。「森そのものが、私たちに何かを伝えようとしたのだと思う」 リノアの声には不思議な重みがあり、トランとエレナは無意識のうちに聞き入った。 トランは一瞬、口を開きかけたが、言葉が見つからないようで、すぐに口をつぐんだ。 室内に静寂が訪れる。「何だか、よく分かんないや」 トランがぽつりと呟いた。 リノアはトランに微笑みかけ、トランの混乱を受け止めた。「ああ、そうだ。クラウディア様から手紙を預かっていたんだった。リノアに渡してって」 トランが慌てた様子でポケットから紙を取り出した。それを受け取ったリノアは、クラウディアの文字が綴られた手紙に目を通す。 紙の表面には、独特の筆跡でこう書かれていた。リノアへ 星詠みとしての力を真に目覚めさせた時、あなたは龍の涙を完全に使いこなす資格を得るでしょう。 この龍の涙が秘める力は人類にとって必要不可欠なものです。しかし、その力を軽々しく扱ってはいけません。使い方を誤れば、その力は必ず破滅への道を開きます。 龍の涙の存在は決して知られてはならない。知られたら必ず奪いに来る者が現れます。その危険を忘れてはなりません。 グリモナ村の村長グレタ、そして付き添いの女性戦士を名乗るレイナ。この者たちが村にやって来ました。 グレタはリノアについて色々と詮索してきまし
「リノア、それってペンダントについている鉱石と同じものじゃない?」 そう言って、エレナがペンダントを床から拾い上げて手に取り、鉱石の横に並べて見比べた。「ほら、ペンダントは加工してあるけど、同じものだと思うよ」 エレナの言葉にリノアはペンダントに目を落とし、ゆっくりとうなずいた。 輝きや質感は異なる。しかし根底にある力の種類が一致しているように感じる。「シオン、これをどこで手に入れたんだろう?」 リノアがぽつりと呟く。 この鉱石はこの付近で採れるものではない。「さっき、ラヴィナって言ってたけど、ラヴィナって誰?」 エレナがトランに問いかけた。「他の村に住んでる人だよ。鉱石にめちゃくちゃ詳しくてさ。シオンもその人から鉱石のことを聞いたんじゃないかな」 トランの声には好奇心と年下ならではの無邪気さが表れている。トランは見張り役として村の内外をよく知っている人物だ。「リノア、ラヴィナって誰か知ってる?」 エレナがリノアに問いかける。「ううん、聞いたことない」 村外の話を聞くことは殆どない。知っているのは外部と交流のある人くらいだ。「そっか。シオンが交流していたのなら、悪い人ではなさそうね。だけど、どうして、こんなものを手に入れようと思ったんだろ。ただ珍しいからという簡単な理由じゃないはず」「私もそう思う。鉱石とは言え、いたずらに破壊する人じゃないし」 ペンダントは加工してある。恐らく、シオン自らの手によるものだ。「シオンは全てのものに生命が宿っていると考える人だった。シオンはこの鉱石を手に入れ、そして加工する必要があった。ということじゃないかな」 エレナの言葉に、部屋の空気が少し張り詰める。「何かもっと大きな理由……」 リノアが呟くように言った。 獣の怒りを鎮めたこの鉱石が、ただの装飾品や珍品ではないことは明らかだ。「ラヴィナと会って、この鉱石について話を聞く必要がありそうね。その人なら、シオンが何を考え、この鉱石をどんな目的で入手し、加工したのか、手がかりが掴めるかもしれない」 エレナの言葉が静かに部屋に響く。 リノアはエレナの推測を心に刻みながら、ペンダントにそっと触れた。──ヴェールライトが私をどこかに導こうとしている……。 リノアは目を閉じて、心の中で輝きを放つ光を想像した。──このヴェールライトは、この
リノアの手が震えながら伸び、机に散らばる鉱石の一つを掴んだ。 その指が触れた瞬間、冷たい感触がリノアの掌に広がり、鉱石が銀色の光を放った。強烈な光の波が部屋を一気に駆け抜け、獣の黒い霧を押し返していく。 獣の瞳が揺らぎ、その青白い光が一瞬だけ弱くなった。動きも止まり、威圧的な雰囲気が影を潜めていく。 その表情には抑えきれない悲しみの色が垣間見える。瞳の奥に、どこか遠い過去を見つめているかのような切なさ。黒い霧に包まれた身体が微かに震えている。 怒りの奥底に隠された深い悲しみ── リノアは、その存在が抱える苦悩と悲哀に触れたような感覚を抱き、胸の奥に何かが共鳴するのを感じた。 霧は獣自身の苦悩を語るかのようにゆっくりと形を変え、獣の胸の奥から漏れ出る呻きは痛みとなって部屋全体に広がっていった。 獣は青白い瞳を伏せると、前脚を折り曲げて上体をゆっくりと床に身を沈めた。 その姿は祈りにも似た純粋さが漂っている。何かを求めるような儚い気持ち……。 リノアを特別な存在として認めているかのようであった。 リノアは、その様子に息を飲んだ。 目の前に存在するのは敵ではない。何かに苦しみ囚われている存在そのものだ。その揺らぐ瞳の中に宿る無言の訴えが、リノアの心に深く響く。──何かの秘密に触れたような感覚がする。 目の前の存在は、私のことを、自然そのものを象徴する特別な存在であると認識している…… リノアは気づいた。自分の選択が、森全体の未来を左右するのだということを── リノアの心に畏れが広がっていく。 リノアは胸に下げていたペンダントを手に持つと、シカに似た存在に歩み寄った。震える手で、その首にペンダントをそっと掛ける。 シカに似た存在の表情が緩くなっていく。無垢で穏やかな瞳……。安らぎを思わせる本来の姿だ。 静寂の中、シカに似た存在はリノアをじっと見つめた後、ゆっくりと消えていった。黒い霧も共に消え去り、部屋に清浄な空気が満たされていく。 机の下に隠れていたトランが這い出し、身を震わせながら言った。「リノア、すげえ! 今、何したの? その鉱石、ヴェールライトの鉱石だろ? ラヴィナに使い方、教わったの? シオンでも使いこなせなかったのに」 矢継ぎ早に質問を投げかけるトラン。 先ほどの恐怖を忘れたのか、その瞳にはリノアへの驚きと尊敬が込
「トラン! どうして、ここにいるの?」 エレナが弓を下ろさぬまま、鋭い声でトランに問いかけた。 警戒の色が未だ消えないエレナの目に、トランは居心地悪そうに頬を掻いた。「クラウディア様から手紙を預かったんだ。リノアたちに渡せって。何書いてあるか知らないけど……。居なかったら紙を置いて帰れって言われたんだけどさ。俺、待ってたんだ」 トランの声からは焦りと幼さが感じられる。「なんだか、もう、このままリノアたちに会えなくなる気がしてさ」 トランの瞳が揺れる。 熱と不安が入り混じったその声は、一瞬、エレナの表情を和らげた。「帰らなくて正解だったね」 エレナは再び、外に意識を向けた。 トランは見張り役として、森の異変——草木の枯れ、シカの狂気など様々なものを見てきた。外部の者との会話で他の村人よりは、外の世界のことも知っている。 姉のミラに守られがちだが、村のために役立ちたい。その想いは人一倍強い。 トランは「会えなくなるから」と言った。しかし、この場に踏み留まった理由はそれだけではないはずだ。「うわぁっ!」 トランが叫んだ。 突然、窓ガラスが激しい音を立てて飛び散った。鋭い動きで飛び込んできたのは、青白い瞳を持つシカに似た獣だった。その身体から立ち上る黒い霧が部屋を満たし、重々しい冷気が漂い始める。 トランが悲鳴を上げ、咄嗟に机の下へと隠れた。 エレナが弓を構え、鋭い眼差しで獣を狙う。 放たれた矢は空気を切り裂きながら飛び、かすかな音を響かせた。しかし獣は反射的にその矢を躱したかと思うと、鋭い勢いでリノアへ向かって迫ってきた。 獣の瞳がリノアたちを鋭く見据え、緊張が一気に高まる。 リノアは後ずさりながら、獣の鋭い瞳を睨み返し、距離を取った。その視線は獣の動きから一瞬たりとも離れない。──龍の涙が脈動している。自然が私に何かを訴えようとしているのは分かる。だけど、一体、どうすれば良いのか…… 全身を緊張が支配する。 リノアは深く息を吸い込み、胸の奥底に広がる緊張と不安を振り払おうとした。 この瞬間の選択が運命を大きく左右する——そんな得体の知れない感覚がリノアの心を支配した。「リノア、トランを守って!」 エレナの強い声が響いた。 その言葉に反応するように、リノアはトランに駆け寄り、机の下に潜り込むトランの前に立った。 震
二人が扉を閉めた瞬間、背後から響いていた低い唸り声が、建物を隔てるように途切れた。室内の冷たい静寂の中で、リノアたちの荒い呼吸だけが響き渡る。 リノアは疲れた手で扉に寄りかかりながら、胸をほっとなでおろした。その一方でエレナは緊張を途切れさせることなく、鋭い目つきで外の気配を探っている。「ここからが本当の試練──まだ気を緩めてはいけない」 リノアは自分に言い聞かせるように呟き、そして立ち上がった。獣たちが、こちらの様子を伺っているのが分かる。少しでも隙を見せれば、たちまちやられてしまうだろう。 窓の外は霧が怪しく揺らめいている。 その中から浮かび上がる異様な姿…… シカに似た姿——角は不自然に曲がりくねり、瞳は青白い光を放っている、まとう黒い靄のような光が、その存在をこの世界のものとは思えないものにしていた。 その奇妙な生き物たちが研究所の周囲をゆっくりと彷徨っている。──悲しげな唸り声……これは自然そのものの怒りなのかもしれない。 リノアの直感がそう囁いた。 森の奥深くでオルゴニアの樹を傷つけ、鉱石を掘り起こす人間の姿が脳裏によぎる。──きっと私たちが自然を穢したからだ。決して動物たちのせいでは…… リノアは胸に手を当てた。──やはり、そうだ、龍の涙は自然の怒りに反応している! その感触にリノアの胸が痛む。 生き物たちの動きが次第に警戒を増し、悲しくも怒りを湛えた唸り声が低く響き渡る中、エレナは鋭い動きを見せた。「追い払わなきゃ」 そう呟いたエレナは即座に弓に手を掛けた。その瞬間、リノアの顔が強張った。「エレナ!」「分かってる。眠らせるだけよ」 エレナは矢筒から特殊な加工を施した矢を選び、慎重にそれを弓に掛けた。矢先には薬草から抽出された微量の神経毒が塗布されている。 エレナの瞳が鋭く光り、狙いを定めた。その姿は、一瞬の隙も許さない緊張感を纏っている。リノアは心の奥底から湧き上がる恐怖に飲み込まれそうになった。──矢を放つことで自然の怒りを更に煽ることになるのではないか。 しかしリノアには、どうすることもできない。自然への敬意と悔恨を胸にエレナの背中を見守るほかないのだ。 龍の涙はリノアの胸の内で赤く脈動し続けている。リノアはただ、その場に立ち尽くした。 と、その時、部屋の奥で小さな物音がした。 反射的にエレ
エレナが森の奥をじっと見つめた後、リノアに目配せを送った。「もう戻って来る気配はないみたいね」 エレナが安堵した表情を浮かべて言った。「帰るよ、リノア。あまり長く、この場所に居続けない方が良い」 そう言うと、エレナは握りしめていた弓をそっと背中に回し、矢筒の中に矢を丁寧に収めた。その動作は穏やかでありながらも、戦士としての洗練された所作を感じさせる。 エレナは肩を軽く回した後、足を一歩、前に踏み出した。 リノアは水晶をポケットに滑り込ませ、最後にもう一度オルゴニアの樹を見ようと思い、振り返った。 背後にそびえるオルゴニアの樹── その威厳ある姿は月光を浴びて一層、厳かな雰囲気を纏っている。──この樹が見てきたこの森の物語は一体、どういったものなのだろう。私の知らないことを沢山、知っていそうだ。 リノアは、その雄姿を記憶に深く刻み込ませるように眺め、エレナの後を追った。 木々の間を抜けた月の光が道を照らしている。 その道の上を流れる一筋の風を感じていた時、ふとリノアの耳に音が飛び込んできた。 それは森そのものが警告を促すかのような不快な音だった。──この鳴き声は動物のものだ。 リノアは直感的にそう感じ、息を潜めたまま耳を澄ませた。 その不協和音にも似た動物たちの咆哮は森の奥深くから聴こえてくる。その不気味な声にリノア胸がざわつく。──動物たちが怒っている……。オルゴニアの樹に触れたからだろうか。 リノアがその感覚に思考を巡らせる間もなく、風が不意に止まり、森を包んでいた音が消え去った。突然訪れた異様な静寂にリノアは警戒心を覚えた。 空気がひどく重く感じられる。──獣の息遣いを思わせる音、そして、この地面を震わせる足音…… 森全体から発せられるこの緊張感は、まるで一つの意思がリノアたちを押し潰そうとしているかのようだった。 リノアは咄嗟にエレナの腕を掴んで言葉を投げかけた。「急いで、早く……!」 リノアの言葉に反応したエレナは、リノアと共に小走りで森を駆け抜けた、その目は森の奥深くを探るように鋭く光っている。 二人の足が濡れた土を踏み、静寂を断ち切る中、唸り声と獣たちの足音が背後から迫って来る。 走っている最中、リノアは胸の龍の涙に意識を飛ばした。──龍の涙が反応している! 静けさとは程遠い、激しい怒りに共鳴す